つらつら日記

ブラック社内SEからブリッジエンジニア(仮)に転職できました。修行中です。

iPadにするか、iPad Proにするか。

先日ようやく引っ越しが終わり、現在安宿を彷徨う生活をしています。会える友人にはあらかた会ったり連絡したりしたので、もうそんなにすることがありません。強いて言うなら、明日自転車の発送と不要物の引き取りがあるので、その点だけが心残りです。

 

とにかく暇と言ってしまえば暇なので、実家生活に備えて必要なものを買い揃えているのですが、現在購入に悩んでいるのがiPadです。

用途としては以下の通り。

 

MacBook(13inch)のサブディスプレイとして使いたい。

・SwiftPlayground、zwift用端末として使う。

・出先でアニメを見たい。

・ソシャゲ専用端末にする。

 

一番目と三番目に関しては他でも代用できますが、PlaygroundはiPad専用アプリなので、代替が効きません。zwiftはMBPでもいいのですが、いかんせん操作が面倒。iPhoneのリモートコントローラーアプリも操作がしんどいので、最終的にはiPadに一本化した方がコンパクトであるように感じました。4つ目の理由に関しては、「ソシャゲと距離を置きたい時は、別の使用頻度の低い端末にデータを移して様子を見る」という手段をよく取っているので、今回もそれです。たまに遊べれば良い用。

 

そこで、iPad(9.7inch)とiPadPro(12.7inch)で現在購入を迷っています。ちなみにminiはサブディスプレイとしては小さすぎる気がしたので、今回は候補から除外します。

 

先ほど現物を触ってきて店員とも問答を繰り返して、正直どっちにしたらいいか判断がつかなかったので、こうしてPCにまとめています。

 

印象は以下の通り

 

iPad Pro

・サブディスプレイとしては的確。zwift端末としても、まあ使えるかなと言う感じ。

・ただ出先で使うにはデカすぎる

 

iPad

・サブディスプレイとしては的確かどうか判断できない。

・出先で使うにはちょうど。

・zwift含め、アプリを遊ぶのにもちょうどいい。

 

と、ここまで書くとiPadの方がいい感じがしますね。あとは手持ちのMacBookと比較して、画面サイズ的に問題がなければ、iPadの方がいいように感じます。

ちょっと店員さんと話すと、少し話がこんがらがりますね。。。やはりこちらでまとめてよかった。

私は何に敗北したのか

今日も今日とて、就職エージェントの面談である。

 

ものは言いようで、前職の失敗をうまいこと隠してアピールすれば、割とエージェント様もいいように取ってくれる。エージェント様からすれば「使えそうな奴」と「そうでない奴」をうまく見分けて、そのレベルごとに案件を紹介するのが仕事であるから、自分ができたことを上手くオブラートに隠して伝えれば、そりゃ向こうの心象もよくなる。

だが一方で、そんな言い方をしていいのかという思いもある。確かに去年から今年にかけて行ったことは成果と言って差し支えないのかもしれない。だが、その裏には山ほどの失敗と周りのリカバリーがあることを忘れてはならない。それをぼかして伝えることによって、次の職でのアンマッチなどが起きはしないだろうか。いや、この勢いだと起きる気しかしない。正直伝え方を間違ったという気がしてくる。

 

面談が終わった後、何が何だか分からなくなってしまい、私は近くのイートインでへたり込んでしまった。

 

店内からは街をせわしなく行き交うビジネスマンが見える。彼らは何を思い、どのような思いで働いているのだろう。

 

それから1時間、私は何を考えるでもなくただイートインから街行く人々を眺めた。隣ではYシャツ姿のリーマンが、MBAを前にエクセルと格闘していた。

 

新卒採用の時、私はどうすればよかったのだろうか。どうすれば正解にたどり着いたのだろう。もしもあの時、なんてことは考えても仕方ないが、ただ現状を整理していると、就活の時の艱難辛苦、色々な転換点となった時期が思い出されて、猛省したくなる衝動に駆られた。

 

1時間半ほど経っただろうか。隣のリーマンは上司に呼び出されたか何かで、鞄片手に彼の戦場へと帰っていった。店員の目もきつくなってきたであろう頃合いを見計らって、私は勢い街へ出た。そのまま新宿へ行ってなのはを見に行ってもよかったが、明日は両親がこちらへきて引っ越しの片付けを手伝ってくれる予定であり、どうにもその暇はなさそうであった。

 

今までの面談ではことごとくITを勧められた。しかし工程管理もできない、作業時間の見積もりもできない、製造に取り組むと人より作業は遅い、などという人材をどこが取りたがるというのか。いや、面接ではそこをぼかせば採用はされるかもしれない。しかし、そうやって採用された仕事に未来はあるのだろうか。

 

休みたい。ただその言葉だけが私の中に残った。

 

箱根旅行に行こうと思っていた週末には台風がやってくる。私が休まる日は当分先になりそうだ。

今月のPVが1000を突破しました。

マメに更新するようになってから、アレヨアレヨとPVが伸びまして、今月1000PV超えました。定期的に読んでいただいている方々がどれだけいるのかは分かりませんが、嬉しい限りです。

 

以前もlivedoorブログで記事を書いていたことがありましたが、その時は1日10PVも行かず、最高でも1日40PVでした。

 

ぼちぼちこれからも更新いたしますので、よろしく見守っていただければと存じます

発達障害者のUターン、絶望的なのではという予測

今日、発達障害支援の団体Kaienさんの説明会に出てきました。

 

これから私は田舎に帰って療養しつつ、発達障害でもなんとか暮らしていける環境を模索していかなければならないのですが、正直絶望的なのではという気がしてきました。こりゃ、両親と一戦やり合わないといけないのでは。

 

1.まず職がありません

発達障害者枠を設けているのは主に大企業が中心で、中小や零細だと正社員でもいけなくはないらしいですが、はっきり言って雇用が安定しないらしいです。安定している中小ならまあいいですが、そこで担当者の方が発達障害に対する理解があるかと言われると、それも安定しません。過去に発達障害を二、三人受け入れたことがあるというのは、それは経験値になり得るでしょうか。発達障害でもADHDASD(アスペルガー症候群)、LD(学習障害)、及びその複合型と、これだけ細分化された症例に対して、過去にちょっと対応したことがあるだけ、という所が本当に対応しきれるのかは疑問です。そもそも親氏は「選ばなければ職はいくらでもある」と考えている節がありますが、「選ばなければ」前職と同じオチが待っているだけです。そもそも選ばなければ仕事はある(何とでも生きていける)というのは、前時代的な発想な気がします。そもそも選ばないと仕事にはつけませんし、適当に選んだ会社がブラックでした、体を壊しました、倒産しました、なんてことになった時に、誰が責任を取るのでしょうか。また労働というのは一生のうち相当な時間を費やすものです。(選ばなくてよかった方々はそれなりでよかったのかもしれませんが、)人間の人生の時間を有意義に楽しく過ごして何が悪いのでしょうか。

 

2.英語の使える職種がありません

無職よりも働いている方がいいのには決まっています。金(及び自尊心の安定)を得られるなら、どんなことでもやりましょう。しかしながら、できれば英語を使った仕事にはつきたいものです。両親としては富山で穏やかに暮らしてくれればいい、職種なんて選ばなくてもなんでもいいと思っている節がありますが、そうは行きません。私にだってやりたい仕事くらいあります。やりたくもない仕事を延々とやれというのは、我々にとってはただの地獄でしかありません。

 

3.そもそも田舎が嫌いです。

地元には嫌な思い出が腐る程あります。人間関係が無駄に密なのも嫌いですし、正直帰ったら放っておいて欲しい。子ども作ったりもしたくありません。(こんな私みたいな目に合わせるくらいなら、子どもなんて作らない方がいい。プライベートが確保できなくなるなら、結婚もしたくない。一軒家で人と住まうこと自体嫌です。)

今までのリーマン生活が酷だったのは、単に職種が合わなかった部分が多いのだと思います。一方プライベートを充実させる手段はいくらでもあり、精神的にある程度ましになれば、まともに生活することはできる。

 

 

以上の点を踏まえて、いかに田舎を短期間で脱し、都会で就職するか考えようと思います。

SE続けろ、ってバカ言ってんじゃないよ

とりあえず、まだ気分の浮き沈みが激しい日々ではあるけれど、就職へ向けて動かなければ、という思いから、先日勢いで就職エージェントとの面談を申し込んだ。

 

正直なところ、エージェント様の言うことは半信半疑かなぁ、といった所。言われたことを書き出すと、

 

・自己肯定感低いよね。別に低くてもいいけど、前職の失敗引きずったままだと別業種きついんじゃない?カウンセリングルームとか行って、人に自分の話を肯定してもらうといいよ。

・働くことを通じて成長すると言う体験が必要だと思う。そうすれば時肯定感が生まれるよ。

・とりあえず現状お勧めできるのは、IT(未経験OKなところ)と、営業かな。SEでうまいこと障害乗り越えれば、自己肯定感増すよ?

・将来の目標と夢があるだけまし。後はそれに計画を作って、PDC回そう。越えることができるステップをいくつか作って、一つ一つこなしていこう。

・とりあえず応募しまくれ。積み重ねていかないと先はないよ。

 

私があまりうまく話すことができず、2時間近く面談にかかってしまった。付き合っていただいたことには感謝したい。

言っていることは理路整然としているし、他己分析に付き合っていただいたおかげで、今まで自分の見えていなかった部分にスポットが当たった感じはある。(ああ、やっぱり俺発達障害じゃん、という自覚が強まった面も否定できない。)

ただ一方で、(向こうも商売柄結果は出さないといけないんだろうけど)こっちも陰々滅々としてるのに、ガツガツ再就職活動を始めろ、と言うのも酷な話だと思う。

私が「まだITに未練がある」と言う話をしたせいか、ITを勧められたが、再起を図るのにITをまた選択すると言うのも酷かもな、と感じた。ここまで話して、ITに戻りたくなくなっている自分に気づいた。前職では嫌ほど「あなたはこの業界に向いていないよ」と言われたせいか、もうその気になってしまっているのではないだろうか。

 

正直、自分は将来どうなりたいのかに関してかなり問い直すきっかけになった。

海外で働きたいと言う願望を突き詰めると、要は「自分が真っ当に働いて、自分なりに楽しく生活したいだけ」なのである。(ついでに自分の特性を生かして、他人より仕事ができると評価されれば、申し分ない。。。)

海外、特にアメリカは一人一人が違って当たり前という風土であるし、それなりのスキルさえあれば(発達障害があっても)認めてくれて、自分でも生きていくことができると思っていた。ヨーロッパも然りである(昨今はかなり事情が違っているようだけれど。)

職種は別にSEでもなんでもいい。ただ、就職活動の時には自分の中で様々な可能性を消して行った結果、残ったのがSEだったのである。

(話すの苦手だから営業はダメだし、文章書いたり絵を描くのも苦手でセンスもないから、デザイナーとか新聞記者もダメ。官僚になるには年齢も頭も足りない、地元の役場は地元に帰らないといけなくなるから嫌、などなど・・・)

そもそも消去法で就職先を選んでいる時点で、色々ナメくさっていると言うか、自己肯定感の低さを露呈しているのだが、そこはそれ。それが四半世紀生きた結果なのだから、仕方ない。可愛い可愛い「私」様である。攻めはすまい。

 

とりあえず何日までにあれしろこれしろ、と言われてちゃんとできるくらいまで精神が回復していないので、ちょっとお願いして就職活動は見送りたい・・・

 

 

人と会話を続けるにはどうすればいいのか。

あなたは人に関心がなさすぎる、と言われたことがある。

 

就職活動の際にもアドバイザーに言われたセリフだ。エントリーシートを見ても何を話しても、私の話に終始他人が出てこなかったからだろう。「他人にこう言われてすごく感銘を受けた」「人に注意されて初めて何かに気づいた」という場面はあるのだが、あまり記憶に残っていない。

大学生活の間は編入試験やらサークル掛け持ち、留学やらなんやらに追われていた。そこには確かに他人がいたはずなのに、なぜか記憶に残っていない。

断片的な記憶はある。編入予備校のアドバイザー、講師のセリフ、サークルや留学でできた友達などなど。こいつはこういう奴だな、程度の認識はあるので、少しは人は見ているのかもしれないが、なんにせよ記憶に残っていないということは、私の脳内では「他人(の行動、人格など)」にカテゴライズされた情報は記憶に残す優先順位が低いということなのだろう。

 

そんな中、苦労するのは他人との会話だ。

昨日久々に留学時代の友人と会ってコーヒーを飲んだのだが、私のことばかりが話題の中心になってしまった。向こうは会話能力が高いので、私のことを色々聞いてくれる。私の前職がSEなのに絡めて、うまく話を展開してくれる。私もそれなりに相手に質問を投げたりするのだが、どこかで必ずネタ切れする瞬間が訪れる。最後はネタがなくなってしまい、ついには自分の発達障害のことも「やりたいことしかできない病」とぼかして話題に出さないといけなくなってしまった(発達障害として受け取ったかはわからないが)。そもそも他人におおっぴらけにできるほど、インプットがないのかもしれない。「これは会話のネタにできる!覚えておこう!」と判断するほど周りの事象にも関心がないのだろうか。

 

もっと外に出た方がいいのだろう。とりあえず外出して北海道縦断でもしてくれば気も晴れるに違いない。(?)

 

一度田舎に帰ったら、どうやって人と会話を展開すればいいのかじっくり考えてみようと思う。

哲学がどうのこうの

fromdusktildawn.hatenablog.com

 

ああ、そうだよなぁ。と思った

ちなみに、私の親は哲学が嫌いだ。親父に言わせれば「哲学なんて学んでも、理屈屋になるだけで役立たない。就職では突っぱねられる」らしい。一方母親に言わせれば、「とりあえず論理的な理屈屋にはなるべからず。鼻につくから。」らしい。

大学の友人に聞くと、色々な答えが返って来る。哲学でいうある種の「考え方」や「主張」を考え出した人の人生を追うと面白い、という人もいれば、「まあ社会的にあんまりおおっぴらけに言うもんじゃないけど、まあためになる」と言う人もいた。

 

個人的には、哲学系の本は読んでいて面白いとは思う。ためになったかは分からない。

ただ仮説ではあるが、哲学をうまく理解できると、人生生きやすくなるんじゃないかと思うので、哲学の本は読んでいる。

哲学における主張や理論は考え方の方程式のようなものであり、「此処をこう考えると、こうなる」と言う理屈を束ねたものである。(ただ方程式のような普遍性は薄いように思う)

私のような人間は考え方が硬い。柔軟性がない。かつ思い込みが激しい。なので、他人の考え方を自分の中に取り込むという作業に時間がかかる。その点哲学は書物などデータにまとめてあるので、時間をかけてじっくり学び、理解することができる。

実際に哲学の考え方を生活に取り入れよ、とかそういう堅苦しいことは言わない。というか、それはかなり現実的に難しい。哲学は自分の脳トレ、頭を柔らかく、考え方を柔軟にする訓練の意味合いがあると思っている。少なくとも世の中には様々な考え方があり、自分の考えが絶対でないことを知っておけば、生活の場において一歩引いて状況を分析する余裕が生まれるのではないだろうか。

 

上記に引用したブログの執筆者の方も言っているが、「哲学は役に立たない。役に立つことを目的にしてはいけない。」一方で脳トレ的な意味合いで、もっと気楽に肩の力を抜いて、哲学は取り組むものだと思う。(ガチでやりたければやってもいいが。)

哲学は頭の固い人たちが多いとか、理屈屋が多いとか、イメージとしては間違っていないのかもしれない。だがそれに囚われず、もっと「柔軟に」かつ気軽に取り組まれるといいなぁと思う今日この頃である。