志望動機やらなんやら

志望動機やらなんやら、というか

海外で働きたいなんて願望はあるけど、そこに「社会に対して何がしたいか」「どう貢献したいか」という視点が抜けていたな、と思い、少し考えたい次第。

 

仮に今の路線で行くと、エンジニアとして海外に出ることになるわけだけど、海外にでる意味って何かなと思う。

新卒就活の時は、大学でジャーナリズムと「世における正しさ」なんてテーマで勉強を進めていたので、「各々がもっと自由に情報にアクセスできて、情報格差なんてなくなればいい」と思っていた。

そう思っていた根源は、自分が大学受験の時に、志望していた大学の入試情報が少なすぎて、無茶苦茶苦労した経験にある。当時は本当に情報が少なすぎて、親に無理言って志望大学の入試講座を聞きに現地まで飛んだことすらあった。塾の先生にも相当面倒を見てもらったけど、ダメだった。そもそも大学が開催している入試対策講座なんか、あてになるわけがない。講座で表に立ったのは某予備校講師だったけど、そもそもタダで入試のノウハウなんか開示するわけないよね。向こうも慈善事業じゃないんだし、それで合格者が増えたりなんかしたら、商売あがったり。

 

少し話が逸れた。兎にも角にも、大学入試失敗を経て都会に出てからも、情報を持つものと持たざる者の差というのは、そこかしこで感じていた。田舎というのは本当に狭い世界だ。その中だけで基本的に何でも完結しているし、その中で生活して行くなら、外のことは知らなくていい。それで日常は支障なく回る。一方でそこでの日常というのは老若男女関係なく、「刺激」にかけている。あらかじめ歩むべきルートや目指すモデルが決まっており、変化なんていらないという人にとっては、快適な環境だ。

 

ただ、私のような「ADHDもどき」にとっては、変化や刺激のない日常というのは非常に退屈で、気が滅入る。田舎では空気を読むスキルが一層必要になるし、それがない人間にとっては過ごしにくいことこの上ない。一方都会は気楽でいい。空気が読めなければ(これは田舎も都会も関係ないが)、必然的に孤独になる。しかし、都会では孤独が許容される。多少変な奴でも、それにあーだこーだと目くじらを立てるような暇は、都会にはないのだ。

 

また話が逸れてしまった。

そもそも私が世間様に対してどんな貢献ができるかという話だった。

ぶっちゃけ、世間様に貢献できるようなスキルは私にはない。

強いて言えば、日本語が話せて、日常会話レベルの英会話ができ、プログラムを書いたことのない人と比較すれば、毛が生えた程度のプログラムの知識がある程度だ。

例えばだが、日本に向けて仕事を発注したい時に、橋渡し程度ならできるかもしれない。メールを読んで、現地で会議ができるかなという程度だ。すごくとってつけたような感じがするが、マッチする条件の仕事があれば、それなりに説得力はあると思う。(他にもそんな奴いくらでもおるわ、というツッコミはなしの方向で。)

 

まあ、こう、情報格差を解消するために何でプログラムなのかという話なのだが。

そういうサービス作りたいの、って言われるとノーだ。そんなもん、俺が作らなくても、他の誰かがやっている。何なら、ツイッターフェイスブックがあれば、事足りる。

ただ、世界には変化と多様性で満ちていてほしいし、プログラムは世界を引っ掻き回す道具でいてほしい。限りなく自分に都合良い世界を実現するために、プログラムは存在すると思う。

情報格差、今考えるとある側面では全然ありだと思う。いわゆる弱者と言われる人たちに情報を伝えたとしても、それを有効活用できるかは別の話だし。知らない方が幸せという言葉もある。自分は弱者なんだと敢えて自覚することが逆に不幸につながることもある。ただ、格差を意識して、そこから這い上がりたいという人たちも一定数しるわけで、そういう人たちにとって手段は必要だ。金とか環境とか、そういうものに影響されづらい、手段は必要だ。

 

田舎の生まれであり、発達障害キャリアである私にできることは、すべきことは何か。

田舎の生まれでも、発達障害キャリアでもいろんな生き方ができる、ということを伝えて回る、ということができるのではないだろうか。

障害者だから単純労働しかできないとか、そういった偏見を(世間的にも、当事者的にも)広く認識してもらえればいいなと思う。

実際に普通に働いて行くということは難しいけれども、不可能ではない。周りの補助と理解は必要だけれど、その手間を差し引いても共に働きたいと思ってもらえるレベルの人間になればいい。ハードルは果てしなく高いけれど。

 

誰がロールモデルというわけではない。ただ、障害者だからという理由で将来の選択肢を狭めることのない社会になるといいなと思う。そのために、自分自身が一つのモデルになれるといいなと思う。傲慢かもしれないが。

 

ただ、自分自身が優れたサービスを作り出すことはできないけれど、自分自身の生き方がこの世に成立することが、世間に貢献することにつながればいいなと言う話。

 

純粋な願望(就活向けでない話)をすれば、単にいろんな所で自転車旅したいだけなんだけどね。日本でリーマンやってたら休み取れないし、絶対無理。

診断が下って

この間、とうとう私に診断が下った。

 

どうやらADHDのような傾向があっても、それではないらしい。どうもそれより大分緩めな診断が下った。

 

それでも私の能力が日本で生きて行くにはどうにもアンバランスで、どうにも生きづらいだろうと言う話だった。

 

能力の分布としては、言語性IQは120オーバーしていた。その一方で、動作性IQはほぼ平均値。完全なアレである。詳しいことは書けないが。アレである。

 

このアンバランスな脳みそ提げて、私はどう生きていけばいいのか。調べると、能力の比率が言語>動作の人間の、いい所が見つからない。頭の中で言葉はあれこれ回るけど、口でうまくそれを表現することができない。つまりアウトプットがうまくいかないので、人からは理解してもらいにくい。あれこれ言葉は回っても、行動が伴わない。口達者だけど、口先だけ。みたいなことしか書いていない。

 

ネットを振り返っても後ろ向きになるだけなので、自分の実生活を省みたい。

 

実際言いたいことはうまく表現できていない。相手が言ったことをある程度推測で補う癖があるので、「本当にわかってる?」と言われると弱い。指示も本当には理解できていない場合が多い。

 

一方で、翻訳業務やマニュアル執筆などは好きだ。プログラムを書くのも嫌いじゃない。ものの書き方、アルゴリズムの実装方法を考えるのは、その場で色々バリエーションを考えるのが楽しい。プログラムなどでは、それがまま裏目に出るけど。

 

自分はどうやって生きていけばいいのだろう。表向きとりつくろってはいるけど、お先真っ暗と言う感じである。当分は一般枠で仕事を続けて、あるいは派遣で働くことも考えないといけない。今の職場はおそらく、私のことを一生懸命見ようとしてくれているのだろうけど、いつまでも今の企業にご厄介になるのは申し訳ないのだ。

 

今はできることが翻訳しかないので、翻訳で食って生きたいとか抜かしているが、それで食っていけるのだろうか。

 

本当に怪しい。

 

自分の人生どうなるのだろう。

前回

前回ブログをiPhoneから書き、意外とまとまりのある記事がかけて満足していたら、なんか知らんが全文消えていた。

 

それから今まで、記事を書くのがアホらしくなり、書くのをやめていた。が、まあそうも言っていられない。私の文章修行は続く。

 

最近はよく停滞している。仕事が停滞しているのはいつものことだが、筋トレも停滞している。週2でジムに通ってトレーナーのマッチョ様に教えてもらったメニューを嬉々としてやっているのだが、最近筋肉痛がないのだ。重量を耐えられるギリギリまで上げて筋トレするのだが、どうにも以前のような激しい身を焦がすような筋肉痛がない。

 

マッチョ様からは、重量を上げすぎても決められた回数こなせないなら筋肉はつかないと言われた。なので、寸前の重量(強度)でやっている。

 

たし大学生活からこの方、休み休みとはいえ筋トレをやってきた人間としては、筋肉痛がないのは寂しい。

 

そろそろ何か変化が欲しいところである。

 

 

 

そこまで考えて、次に思い浮かぶのは食事制限である。

 

大学時代に1日1000kcalの上限で食事制限を行い、毎日ジムに通った結果、1ヶ月で10kg落としたことがあったが、あんな無茶はもうできない。私の集中力が死んでしまう。

 

食事制限の上限に関しては、そこそこ妥当な線だった気がする。私の体格ベースで考えた時の1日の消費カロリーは2400kcal程度。そこから1400kcalを毎日抜くのだから、食事だけで5日で1キロ痩せられる計算になる。

 

今またダイエットを敢行するなら、1日1200kcal制限を課して、筋トレは今のペースで。自転車に乗ったら、乗ったぶんだけ食べても可。これをある程度逃げ道にしてしまえば、休日にラーメンも可。素晴らしいプランである。

 

ちゃんと計画的に金が入ってくるなら、固定ローラーが欲しい。ヤフオクで5万くらいの。毎日1時間乗れば800キロカロリー減。週末にラーメン一杯食べるくらいなら収支でお釣りがくる。

 

まあ絶対にジムのマシンより楽しいよね。

 

目指せ、ゴツゴツした腹筋。さらばぶよぶよお腹。

CentOS6.8でEclipseの日本語化してみた

実にありふれた内容だ。こんなもん普通なら1時間かからずにできてしまう内容だ。

ところがどっこい、そうはいかなかった。毎度のことながら。

 

今回はEclipse自体のバージョンアップ作業を経てから、pleadesを突っ込みーのしてみた。

Eclipse自体はCentOSのセットアップ時に、オプションのダウンロードでサーバ機能を指定していた関係で最初から入っていた。入っていた。

 

Helios(ver.3.6)が。

 

Heliosってどれだけ前やねん。今はNeon(ver.4.6)の時代やぞ、と毒づきながら、アップデート作業に入った。

 

が、eclipseアップデートに関して言及している記事やらブログのエントリが少なすぎる。

 

ぶっちゃけ、eclipseの入っているディレクトリの中身を削除して、GUIeclipseの公式サイトから仕入れてきた解凍前ファイルをそこで解凍してしまえば一番手っ取り早い。手順書に起こすにもすごく楽。(最後はその手段をとった。)

 

だがそこはそれ。後学のために、あえて私はコマンドでアップデートを試みた。

 

撃沈した。

 

まずgrep関連のコマンドでeclipseのパッケージをアンインストールし、新たにyum install eclipseeclipseのインストールには成功した。

 そう、eclipse(Helios)の。

 

またもや最新版は手に入らなかった。Neonは遠い。

結局私はファイルをGUIで解凍しようとした。

が、失敗した。

 

確か、tar xvzf pkgconfig-0.15.0.tar.gz(ファイル名は変更した)と言ったコマンドを実行したが、解凍できないらしい。

 

覚えているのはこれくらいだ。辛い記憶はとっととコーラで流してしまえ。

結局私は元あったeclipseディレクトリの中身を削除、代わりに解凍したファイルをディレクトリに配置し、とりあえずインストール作業は完了した。完全な敗北である。

まあ、結果が出ればいいのだ(吐血

 

次に日本語化だ。eclipseの日本語化プラグインはpleadesといい、ググったら出てくるサイトで最新版と前回版を配信中だ。ちなみに配信しているサイトのURLは以下の通り。

Eclipse 日本語化 | MergeDoc Project

 

こいつも圧縮ファイルで提供されているので、解凍してやる必要がある。確かeclipseの実行ファイルがあるディレクトリと同じディレクトリにある「dolpin」に配置してやり、ファイルを解凍するとよかったはずだ。(実行ファイルと同じディレクトリだったかもしれない。どっちかだ。)それからeclipse.iniという設定ファイルも(実行ファイルと同じディレクトリにあるので)書き換える。

確か、ファイルの最後に以下の通り書き加える感じだったはずだ。

 

-Xverify:none
-javaagent:/ide/Java-eclipse-
4.5.1/plugins/jp.sourceforge.mergedoc.pleiades/pleiades.jar

 

無論以上の記述は、インストールするeclipseのバージョンによって書き換えなければならない。

 

例えば、この記述とpleadesの展開位置が食い違うと、eclipseを起動した時に一瞬ロゴが表示された直後、アプリが落ちることになる。そこらへんは、まああんまり試すパターンもないことだし、試行錯誤するしかない。

 

今回試したのは相当に力技だが、おそらく最も確実だ。コマンド手入力で打ち間違えたりするよりははるかに。

他にもeclipseのメニューの中からpreferencesの項目を見つけ出し(確かヘルプ直下だったか、window直下だったかにある。)、「install and Update」からアップデートに使えるサイト一覧を書き加えた上で、eclipseのヘルプメニューの中からアップデートを行うと、あら不思議アップデートできちゃう、なんて言っている人もいるが、個人的にはうまくいかなかったのでオススメしない。

 

この周りは割と楽な部類なので、チョチョイと頑張れば何とかなる。はずだ。

 

だがまあしかし、全部コマンドでアップデートができたなんて人がいたら、その人の爪の垢でも煎じて飲みたい気分だ。

僕もジョブズではない

syakkin-dama.hatenablog.com

 

こういうブログを読んだ。

 

自分もまあ、まだ疑いがあるという段階だが、ADHDっぽいので興味深く読ませていただいた。

 

何というか、まあ私も似たような生き方はしてきた。

 

人間関係は破綻するたびにコロコロ変わってきたし、嫌なものには嫌と言ってきた、そういう人間だ。

 

結局薬を服用してでも、地道に知識やら経験を積み重ねていくしかないんだよなあ。

 

私には何かを好き、という程度の才能しかない。その好きという才能でもって受験も乗り切ってきたし、(主にTOEICと小論文。)結局それでこれからも生きていくしかない。

 

まだプログラミングは嫌いになっていない。何しろやったことが少なすぎる。

 

ちょっと携帯のアプリを作っただけだ。これでは学んだと言えることが少なすぎる。

 

物事の好きというのは二種類ある気がする。まずは直感的に好きになれるもの。そして、第一印象はともかく後から続けていくうちに好きになれるもの。

 

プログラムはおそらく後者だ。まあ実際に問題が解決したり、ものが出来上がる感覚はいい。素晴らしい。プログラミングが好きになってしまいそうだ。

 

まあそうやって、時間をかけて好きになればいい。会社でもまあ、冷ややかな視線は飛んでくるかもしれないが、ゆっくりやるしかない。自分のペースを守らないことには、私のパフォーマンスは上がらないのだから。

 

今日はもう1エントリ、技術周りのことを書こうと思うのでこれにて

勉強

2月に入ってから、残業が禁止になったので、自由な時間が増えた。

 

ようは宙ぶらりんな状態だ。

 

1年目で配属されたところでは「こいつあかんちん」と見放され、産業医からは「こいつ逝っちゃってるちん」と鬱宣告。上層部からは「こいつこのクソ忙しい時に何してくれとんじゃ」と冷ややかな目で見られる毎日。

 

でもまあいい。それなりに筋トレしたり本読んだり勉強する時間が増えた。私自身脳みそのワーキングメモリが常人より小さいので、こうして無理にでも時間を作って余力を残しておかないと、勉強する時間が作れない。時間と余裕がないと基本情報にまた落ちて、新人は基本情報持ってるのに、俺はまだ持ってないんだぜ、仕事もできないんだぜ、みたいな状況になる。そうなったら俺の胃がやばい。

 

本気にならずともよい。ちょっと勉強するだけでいいのだ。

 

ちょっと勉強する、その積み重ねが大事なのだ。残業なんか糞食らえ。今はただチャージして次に生かす。そういう時期だ。